~奇跡の軌跡~
「歯車一筋」の創業者、庄司勝治が生み出した新「セルフロック」機構
始まりは、定年後に立ち上げた町工場から
弊社の創業者である庄司勝治は、仙台で生まれ育ち、東北大学を卒業後は日本ギア工業に就職。工場管理や生産技術・営業を一通り経験し、最後は関連会社の社長として定年退職するまで、約35年間「歯車一筋」の会社人生を送りました。退職後は「短い一生、好きなモノづくりで自立してやってみたい」という思いを胸に、昭和60年(1985年)、退職金をベースに工作機械の歯車装置などの設計・製作を中心とする会社を創業。「庄司歯車エンジニアリング」の誕生です。
独立を志したときから、夢は新製品の開発。バブル景気で順調なときもありましたが、「三次、四次の下請け企業では、不景気になると仕事がなくなってジリ貧だ」との不安から、オンリーワンの技術を追求していました。当初は会社経営を軌道に乗せるのが精一杯だった中、回転装置の自動締り機構の開発に着手したのは、平成7年(1995年)のことでした。
トラブルと不景気から生まれた新セルフロック機構
転機は思わぬところで訪れます。不景気で仕事が少なかったこともあり、空いている時間で様々な試作機を製作していたある日、ハイポサイクロイド減速機の試作機を製作中に出力軸側がロックして回転しないというトラブルが発生。これが、今日の画期的な新機構へと結びつくことになりました。
「待てよ、これは大発見かもしれない」。そうひらめいた勝治は、「なぜロックするのか?」とこの事象を突き詰め、自社工場にある設備を駆使して試行錯誤を繰り返すうち、ついに新セルフロック機構を内蔵した減速機の製品化にこぎつけたのです。
平成11年(1999年)、満を持して東京ビッグサイトで行われた「テクノピア‘99東京」に出展したところ、大きな反響を呼ぶこととなりました。
応用製品で数々の賞を受賞するも、販売の壁にぶち当たる
この技術をさらに応用し、様々な製品を開発。「バタフライバルブ用減速機」「手動ウインチ」「ラック式ジャッキ」で藤沢市新製品開発賞を受賞。「電動工具で駆動する電動ウインチ」では、かながわビジネスオーディション奨励賞、藤沢市新製品開発賞奨励賞、神奈川県発明展で県知事賞も受賞するなど、数々の評価をいただきました。
評価される一方で、これらの製品がすぐに売れるようになったわけではありませんでした。当時はネット環境もまだ不十分でしたし、実績がない製品への抵抗感もあったのでしょう。加えて従業員は高齢化で相次いで退社、社長ひとりですべてをこなす日々で、営業にかける人員も時間も全くありませんでした。
会社と開発製品の危機を救ってくれた「人」の輪
「世の中に知れ渡れば必ず売れる、勝機はある」。
この信念を胸に孤軍奮闘するものの、会社はジリ貧状態で存続の危機に。そんな中、手を差し伸べてくれた人たちがいました。
- <特許出願料を割賦で>
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特許取得時には、ある特許事務所の代表弁理士の方に大変お世話になりました。新機構の可能性を高く評価し、国際特許も取得するべきだと助言してくださっただけでなく、資金繰りの厳しい状況を考慮し、約200万円の特許出願費用を割賦という形で引き受けてくださったのです。このとき国内のみならず米国、欧州、台湾、中国、韓国での特許も取得、その後の大きな後押しとなりました。
- <学会の論文作成支援>
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平成18年(2006年)、新セルフロック機構の理論を日本機械学会(熊本大学)で発表する機会に恵まれたときは、この新機構に高い関心を持った日本ギア時代の同僚が論文作成を手伝ってくれました。発表後、徐々に問い合わせや商談の依頼が入り始めるようになり、飛躍への第一歩となりました。
- <初の大口注文で初期ロットを前払い>
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ある機械商社から弊社の減速機を半導体装置に採用したいと依頼が入ったときのことです。初の大きな受注物件でしたが、当時の弊社には初期費用や材料を買う財源もありません。それを知った営業担当者は自分の会社に掛け合って、なんと初回ロット分全額を前払いで払ってくれたのです。その資金を元に製造開始した製品は、最終的には1000台以上を販売する大ヒットとなりました。
- <社長不在の工場を守る>
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しばらくの間、ひとりで全てをこなしてきた勝治でしたが、80歳で食道がんを患い、手術・入院のため長期離脱を強いられることに。その際に会社を救ってくれたのは、外注先の社長から紹介されて入社したばかりの職人さんでした。慣れない業務に加えて電話応対もこなし、社長不在の会社を守ってくれたのです。もし、彼が入社していなければ弊社は廃業に至っていたかもしれません。
生涯現役を貫き、歯車一筋の人生を全う
会社が軌道に乗り出しても、「電車の中でも、寝床の中でもいつも考え続けていた」という勝治の情熱は最期まで衰えることはありませんでした。平成28年(2016年)に代表を退いて会長に就任後は、設計に専念。「この発明を世の中の人に役立てたい」という願いを持ち続け、令和3年(2021年)にこの世を去る直前まで、机に向かって手書きの設計図を描き続けました。
現在は、故庄司勝治の遺志を継ぎ、この機構・製品のさらなる普及に会社全体で取り組んでおります。